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Biography

Takayoshi Nakai

Takayoshi Nakaiは神奈川県横浜市出身のギタリスト・作曲家。2月15日生まれ。主にアコースティックギターを使用。
幼少期から両親に連れられて教会に通い、讃美歌に親しむ。 14歳の頃、伯父から譲り受けた古いエレキギターを手に取る。高校時代にバンド活動を開始し、いくつかのロックバンドでギタリストとして活動。 20代はソロに転身し、ほとんどの期間をシンガーソングライターとして活動した。 その後アイルランドへと渡り、2023年には自身初のソロギターアルバム『Medios Mixtos』を発信。

現在は帰国し、ソロギタリストとして活動。2024年9月には横浜市栄区民文化センターリリスホールにて「午後の音楽会」への出演が決定している。

創作持論

一本のギターで世界を創ること

Creation on One Acoustic Guitar.

初期衝動

人生を通して何か一つのことを極めたい。幼いころからなぜか当たり前にそう感じていた。
17歳になる頃、それはギターなのだと決めた。

唯一無二と言われる人たちに憧れて、自分も早くそうならねばと焦った。
特定のジャンルで名前の挙がる人や、売れているバンドの名前も知らないギタリストになりたいとは思わなかった。

なにより自由になりたかった。

望むのは、縛られることのない『永遠の探求』。

唯一無二という言葉の罠

はじめのうちは奇をてらうことばかり考えた。 ジャンルや楽器を問わず、あらゆる奏法をギター演奏に組み入れた。 あらゆるエフェクターを駆使して、人と違う音色を探した。
あるいは箱を踏み鳴らしながら演奏したり、ギターを叩いたり、思いつくことをなんでも試した。

そんな模索は、ただうるさいだけだとわかってきた。 ギターを叩いても、ドラムやパーカッションには敵わない。 苦労して運んだ重たいエフェクターボードも、足元を輝かせるだけでシンセサイザーほどの自由は与えてくれなかった。
変わったことをするほど、ギター性が薄れていく。見た目に派手なばかりで音楽が痩せ細っていく。

必要なことだけを残してシンプルになれば、確立されたギターミュージック ─ Blues・Jazz・Country・Flamenco・Bossa Nova・etc...─ を一つも知らない小さな自分が残った。

真の自分らしさとは

本質はもっとシンプルなところにある。派手で目立つことをしていれば自分らしくなれるわけではない。
一人ひとりの話し方が違って、その人の個性が会話に現れるように、それは勝手に自分の形になるのではないか。
子どもが言葉を覚えるように、生まれてから今に至るまでのすべての音が、自分の中で混ざり合い、その人独特の言い回しとなって個性を決定づける。

奇をてらった演奏には、会話の語尾に「ござる」とか「ざます」と付けて自らをキャラクター付けするような、そんな気恥ずかしさを覚える。

”品格”というものは、果たしてそれが良いか悪いかは別として、会話の端々に滲み出る。
オラついた話し方をする人がいれば、何か辛い過去を背負って生きてきたのかと勘ぐってしまう。 か細く話す人も、豪快に話す人も、語尾に何かを付けなくてもその人となりが伝わってくる。

音楽もまた、そういうもので良い。

道標として

願わくば下品ではない話し方を心掛けたい。これもまた子どものように、良い見本を示す大人を探すべきだ。
つまり、良い音楽や芸術に触れて、自己を顧みればいい。
先人の残した思想や芸術への向き合い方を知り、そこにあるヒントを掴んで、自分ならどうするかと考える。そうすることで、少しずつ良くなっていけば良い。

焦って他人のフレーズやメロディを真似たところで、自己の本質は掴めない。
それは、極めていくということから最も遠いところにある。

良い音楽は世界を演出する

幸か不幸か、音楽は常に脇役である。それ単体で力を持ったり、なにか単一の事柄を象形し、映し出すものではないと思う。
なにか自分の好きな音楽を頭に思い描けば、同時に浮かぶ情景は人それぞれだろう

それは電車の中で揺られながら聴いた学生時代の通学風景だとか、 毎週欠かさず観ていたドラマのテーマ曲であったりとか、 仲間とカラオケにいけばいつもアイツが歌ってみんなで盛り上がった曲だという思い出のように、 なにか自身にとって思い入れのある情景と繋がって想起されることがほとんどだろう。

良い音楽は世界を演出する。
これからという時に自身を奮い立たせたり、悲しい時に孤独に寄り添うような音楽をかけたり、人それぞれに自身を演出する楽曲を持っていることだろう。

誰かの感情に寄り添い、わずかな時を演出する。
そんな瞬間に選ばれるような音楽を作れたら良い。

ギター独奏者という立場から

ギター独奏者という立場にあって、言葉のない音楽、剥き出しのギターで、どのような世界を創り、聴衆になにを与えるのか。
ギターを極めようとするならば、常に自問しなければならない。

音源制作においては聴きやすさが優先され、ダイナミックな演奏は効果的でない場合もある。
バンドであれば、常にだれかが音を鳴らし、楽曲全体の太さはそれほど変わらないが、独奏であれば別である。

あまり小さな音を鳴らすような表現は不要なノイズの収録に繋がったり、音量に直接影響する。
聴き取りにくいからと聴き手がボリュームを上げたり下げたりしなければいけない音源では、その世界に聴き手が没入することはない。

あくまでも主役は聴き手であり、この場合過剰な表現欲求は作家のエゴとなる。

しかし、ライブとなれば青天井だ。
静寂と爆発をコントロールし、その起伏の中で自己意識を放出すれば、まさにギターが主役となる見せ場が訪れる。

これより先はライブについて言及する。

師から授かった真髄

最も尊敬するギタリスト長尾行泰氏から、ギターを弾くことの真髄として教わったこと。
良いギタリストとはそこに居ないかのようにさり気なく在り、密かにボーカルや聴衆の感情起伏をコントロールする者である。
それは、自身が前に出ようとするのではなく、主役を立て、彼らのために世界を創るということ。
しかし、ひとたびギタリストとしての見せ場が与えられたなら、一瞬ですべてを飲み込む圧倒的存在感を示さなければならない。

後述するが、ギタリストというものは、かっこよくなければならない。
長尾氏の演奏にはギターのかっこいいが詰まっている。

さざ波のように在って世界を創りながら、時に大波となって押し寄せ、すべてを飲み込む。

ギター一本でそれを成すことが、独奏者として目指すべきライブである。

我が体験としての爆発

一瞬ですべてを飲み込むという意味では、かつて、ある大ホールで演奏する機会を与えられたとき、垣間見た景色がある。
壁や天井に反響しながら音が飛んでいく。自分という一点を中心に、ドーム状の爆発を起こしながら箱の中に満ちていく。 手元でコントロールし、爆発の大きさが調節できることに気が付く。その爆発はまさに自己意識であり、自分という個が広がって、空間にあるものすべてを飲み込んでいくようだ。

それ以来、どんな場所で演奏する時も同じような爆発が見える。大きすぎてはうるさく、小さすぎては届かない。

ここぞという瞬間に、空間を飽和して自然なコンプレッションがかかるところを狙う。
それは一瞬でなければならない。

ライブとは祭祀である

人にみせるからには、ライブはエンタメ性を伴わなければならないと思っていた。
それはシンプルに盛り上がれるとか、楽しいとか、そういうことが必要なのではないかという迷いである。

誰かにとって思い入れのある音楽をつくるために、心を動かすために。
それは楽しい物であるべきだが、明るい曲を書くことは苦手である。
カバーをすれば、その曲を好きで聴いてくれる人もいるかもしれないが、カバーするほど好きな他人の曲もない。

そんなことを嘆き、何度となくライブミュージシャンとしての道を諦めかけたが、 最後と思って飛び込んだ先で出会った人から「音楽は祭祀で良い」と諭されたことで救われた経緯がある。

曰く、音楽はエンタメであろうとしなくて良い。それは祈りで良い。
宗教において祭祀とは、神のような存在を愛し、その愛をすべての人たちと分かち合うことである。 我々ミュージシャンは、音楽という巨大な存在を愛し、それをすべての人と分かち合うことをすればいい。

クリスチャンである両親に与えられた『崇睦』という大げさな名前に感謝する時が来た。
その意味は偉大なるものを崇め、全ての人と親しむこと。
これは祭祀の持つ意味と符合する。30年の人生を経て漸くこの名は体を成すきっかけを得たのだ。 そこに運命を感じることで、自身の進むべき方向性は定まった。

ギタリストはかっこよくなければならない

ギター一本で示すエンタメ性ということを悩んだ結果、思ったことを最後に書く。

ギターという楽器は、ピアノのように親から勧められて始める楽器ではない。 ほとんどの人は心の中に憧れのギターヒーロー像を持ち、自らの意思で手に取ることではじまる楽器である。
しかし、多くの初心者はその難しさに挫折し、一曲も弾けずに投げ出してしまう楽器でもある。

数年前の話になるが、複数の売れっ子ミュージシャンが「ギターの時代は終わった」「まだギター弾いてるの?」などと発言したことが取り上げられ、苛立ちを覚えた。
その発言自体は間違っていなかったのであろう、ギターが目立つような曲はどんどん減っていったように思う。
最近の若者の中にはイントロやギターソロを飛ばして音楽を聴くという人もいる。
たしかにギターの時代は終わりに向かっているらしい。

某大手ギターメーカーなどは、ギターを売るのではなく、『ギターのある生活』というライフスタイルを販売する方針転換を掲げ始めたが、これもまったく気にくわない話である。

ギターは憧れから始まる楽器である。ギターの敗北ともいえるこの酷い状況を招いた一因に、ギターヒーローの不在があるだろう。
ある時代に比べて、娯楽の種類が増えたことでギターは一番かっこいい物の座を降りるしかなかったのかもしれない。それだって敗北に変わりはない。このことをとても寂しく思う。
モテたい、目立ちたいなどという理由で手に取った人もいるだろうが、やってみればわかる。ギターはむしろモテない楽器だ。

ギターという楽器の持つ最大の魅力、最大のエンタメ性とは、かっこいいことに尽きる。その音と存在感で、ギターはかつて少年たちの憧れをかっさらっていった。
他人との対話ではない、自分がのめり込み、憧れた姿にどれほど近づけたか、そんなところに喜びが転がっている楽器であるが、壁は高い。意志が弱ければたちまち逃げ出すだろう。
多くの初心者が経験する挫折を乗り越えて、真似事を脱するところまでくれば、ギターほど自由に、直接的に自己の内面を表現できるソロ楽器はほかにはない。

自己表現のツールとして極めようと決意したのなら、その立場にあって、絶対に忘れてはいけないことがある。
始めてギターに衝撃を受けた日の興奮を、自ら体現し、新たな憧れを奪うこと。
自身の中に、あの日憧れたヒーロー像を絶やしてはならない。それこそ、本当にギターの時代が終わるときだ。
移り変わりの激しいエンタメの世界において、一瞬でも憧れの中心に躍り出た幸福な楽器はそれほど多くない。終わらせてはならない。これは全ギタリストの責任だろう。

ギターを弾くということは、なによりかっこよくなければならない。

── 中井崇睦